ぼくはロシアが好きです。まずロシア民族の気質みたいなものが好きです。風土も好きです。愛すべきロシア、という表現がぴったり。大学ではロシア語を第二外国語に選択しました。もうすっかり文法とか単語は忘れてしまいましたが。
ロシア人はことわざ好きらしい。たしかそんなことをロシア語の教官も言っていました。たしかにロシア語の辞書をみるとたくさんことわざが載っています。そこで以下では、ぼくがこれはと思うロシア語のことわざを引用していきたいと思います。出典は、
博友社ロシア語辞典、第1版13刷、博友社、1991 年
です。本当はロシア語の原文が載せられればいいのですが、タイプするのが面倒なので日本語的な音に直してカタカナで表記しました。またそのことわざが掲載されている辞書のページをカッコ内の数字として付記します。それから日本語訳ですが、辞書ではかなり意訳されているので、なるたけ直訳になるよう適当に辞書の表記を変更しました。
なおこのページはもともとあんまり気合いも入れずにつくっていたのを、いくつかの反響をもとに、もう少しまじめに書いといたほうがいいだろうかと思いなおし、加筆、訂正したものです。さらに付け加えますと、ぼくはロシア語の専門家でもなんでもありません、理系だし。ですからこのページにはきっと間違いが多いのだと思います。あしからずご了承下さい。
それから完全ではありませんが、何かの役にたてばと思い、辞書から採集したことわざのデータをこちらにのせておきます。
ではロシアのことわざの世界をどうぞ。
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ゴーレ・ニェ・モーレ、ブイピエシ・ダ・ドゥナー
いつまでもくよくよするな、時間がたてば忘れられる、の意。いい表現です。悲しみ(ゴーレ)と海(モーレ)とを対比させ、さらにそれらに飲み干すという動詞をもってきたところに深みがあります。ぼくのお気に入り。
ナズバールシャ・グルスデョーム、ポリザーイ・フ・クーゾフ
のりかかった舟だ、あとへは引かれぬ、やるなら徹底的にやれ、中途半端はやめろ、という意味だそうです。これはさすがにぼくのような素人には解釈不能です。でもなんだかロシヤっぽい。きのこ狩りにきてきのこを擬人化している、というよりも人間を森のきのこにたとえているのでしょう。ユーモアがあります。
ナ・イズィケー・ミョートゥ、ア・フ・セールツェ・リョートゥ
口先ではいいことを言っているが、胸のうちはうらはらだ、の意。はちみつ(ミョートゥ)と氷(リョートゥ)とで韻をふんでいます。同様のことわざに「舌の上でははちみつ、舌の下には氷」 (530) というのもあります。
ニェ・フショー・コム・マースレニツァ、ブィバーイェット・イ・ベリーキー・ポースト
人生いいことばかりではない、悪いこともある、の意。辞書によればカーニバル(マースレニツァ)とは古くは古代スラブ人の冬を送る祭りで、ロシヤ正教では太齋(ベリーキー・ポースト)の前週の期間のこと、らしい。宗教的背景はよくわかりませんが、とにかくお祭りの後に斎戒期があるんだろう。しかしなぜ猫なんだろうか。
ウリータ・イェーディエト、カグダー・タ・ブーディエト
地道に努力すればいつの日か成し遂げられる、の意。ウリータは女性の名前ですが、カタツムリ(ロシヤ語でウリートゥカ)の歩みが遅いのに掛けています。ぼくはこういうユーモアが大好きです。
リュービシ・カターッツア、リュービ・イ・サーナチキ・バズィーチ
意味はまったくこの通り。子供をしつけるのにきっとロシヤ人のお母さんは言うのでしょう。
ニェ・フ・スバイー・サーニ・ニェ・サディーシ
これまたそりに関することわざ。辞書によれば解釈は二通りあり、ひとつは他人の仕事には手を出すな、痛い目にあう、もうひとつは、自分よりも地位の高い人と同じようにふるまうな、だそうです。いずれにせよ、ロシヤ人にとってはそりは身近な乗り物なんでしょう。
フストゥリチャーユトゥ・パ・ナリャードゥ、プラバジャーユトゥ・パ・ウトゥー
最初は外見で判断するが、人物がわかると才能を尊ぶ、人はみかけによらない、の意。これも韻をふんでますね、というか格変化の結果ですが。最初は服装で迎える、とはっきり言いきっているところがすばらしいです。ホームページも外観で訪ね、内容で去っていくわけですね。まず外観をきちんとしよう。
イェーシ・ピローク・ス・グリバーティ、ア・イズィーク・デルジー・ザ・スバーティ
ごちそうされても余計なことはしゃべるな、の意。ピローグとはロシア風のパイのことらしいですが、ぼくは食べたことがありません。ピロシキとは違います。きのこ入りピローグっていうのはきっとおいしいんでしょうね。
ピェールブイ・ブリン・コータット
ものごと最初は失敗しがちなものだ、大目に見なくてはならぬ、の意。ブリンとはロシア風のパンケーキのこと、プリンではありません。これもぼくは食べたことがない、多分。
シェイ・ガルショーク・ダ・サム・バリショーイ
貧乏暮らしをしていても、それで他人の世話になっていないのなら立派なものだ、じゅうぶん幸せだ、というような意味。キャベツスープにロシア的風味を感じます。
ウ・フィーリ・ピーリ、ダ・フィーリュ・ズ・イ・ビーリ
恩をあだでかえす、の意。名前が出てくるとなんとなくロシアっぽい感じがしますね。
ナ・ビェードゥナバ・マカーラ・フシェー・シーシュキ・バーリャッツア
これも名前入りのことわざ。意味は、泣き面に蜂、弱り目に祟り目、だそうです。森の中の光景が目に浮かんできます。なにかの童話のなかの場面かもしれません。
ディエーラ・ニェ・メドゥビィエーティ、フ・リィエース・ニェ・ウイディヨートゥ
急いては事をし損じる、の意。このたとえが最高におもしろいです。熊にこれほど親近感をもつ国民もそうないでしょう。なお「仕事はおおかみでないから森に逃げない」というバージョンもあるようです。
カ・フシィヤーカイ・ボーチキ・ザトゥイチカ
なんでもできる便利なやつ、器用貧乏、という意味らしい。ちょっと人をばかにした感じ。
ス・ミール・パ・ニートゥケ、ゴーラム・ルバーシカ
助け合いの大切さを説く共産主義時代の標語ともとれないこともないことわざです。糸とシャツということばに温かみを感じます。
ウ・セミー・ニャーニク・ディティヤー・ベス・グラーズ
船頭多くして舟山にのぼる、に似たことわざ。偏見かもしれませんが、乳母(ニャーニカまたはニャーニャ)というとなぜかロシアのちょっと口うるさいおばちゃんを想像してしまいます。
セーミ・ラス・プリミェーリ、アディーン・ラス・アトゥリェージ
念には念を入れよ、なにごとも慎重に、という意。7がセーミ、1がアディーン。
ドゥリャー・ミーラバ・ドゥルシュカー・セーミ・ビョールスト・ニェ・アコーリツァ
意味はその通り。露里(ベルスタ)とはロシアにおける伝統的な距離の単位で約 1.06 km だそうです。まあ7キロぐらいどうってことないわな。むしろ近いくらいだ。七がらみのことわざは、他に「七つの悪事に報いはひとつ(=毒をくらわば皿まで)」 (23) というのもあります。
ウ・ストラーハ・グラザー・ベリキー
いったん恐怖心を抱くと、ちょっとのことをおおげさにとらえて恐れてしまう、なんでもないことを気にかけてしまう、という意味。
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ぼくはロシア語の専門家でないので、本当は他人のそりに乗るのはいけないんですが、ちょっと気になったことをひとつ。ロシア語の語順はけっこう日本語に似ています。日本語では「てにをは」という助詞が重要な働きをもっていて、「わたしは本を読む」でも、「本をわたしは読む」でも、なんとならば「読む、本を、わたしは」でも、意味は通じ、文法的にも誤りではありません。ロシア語もそれに事情が似ています。ただロシア語では助詞などというものは(おそらく)なく、そのかわりに形容詞や動詞だけでなく、名詞もがんがん格変化します。ですから「本を」とか「本が」とか「本から」とかいうときの「本」が、ロシア語では微妙にちがってきます。単数形と複数形でも違うからさらにややこしい。まあこれと似た現象はフランス語でもドイツ語でも起こりますから、別にロシア語特有のことではありませんが。
ことわざの原文をカタカナ表記したやつを注意深くみたとき、たとえば「7」がセーミだったりセミーだったりするのは格変化の結果です。「目」がグラザーだったりグラーズだったりするのも同様。
そうやってロシアのことわざの原文とその日本語の直訳とを見比べると、驚くくらいに語順が似ているんですね。これがもし英語だったらそうはいかない。英語はちゃんと主語→動詞→目的語などという具合に順番が決まっている。この辺の類似点、とくにことわざという象徴的な文句を言うときの語順の類似点が、ロシア人の感覚と日本人の感覚との類似性を示唆しているようにも思えてきます。違うかもしれないけど。言語学的にはどうなんでしょう、もはやわたくしの知識のしきいを超えています。
(平成十二年一月十四日初稿、平成十四年三月十六日加筆・訂正)