はじめに
昨今、あらゆるところでグローバル化が叫ばれている。日本地球惑星科学連合でも、「重要だ」と主張して、「グローバル戦略委員会」を発足させていただいた。発足した以上は成功させたい。来年度の連合大会では、AGU, EGU, AOGSの全てのプレジデントをお招きして”Geosciences Ahead”と題する国際シンポジウムを開く予定だ。幸い、AGUのプレジデントCarol Finn氏とは旧知の間柄であったので、今年は7月にワシントン D.C.のAGUビルに会長、副会長共々おじゃまし、多いに連携していこうと一致した。
さて、来年どのようなシンポジウムになるかはお楽しみにしておいていただくとして、この”グローバル化”とはなんぞや、との自分への問いかけからはじめなければならない。何しろ世間では「世界を戦争に導くグローバリズム」という挑発的な本も出ているくらいだからだ。
そこで、私は、1から勉強をはじめようと思った。私は政治学者でもなければ、経済学者でも、歴史学者でもない。一介の自然科学に勤しむ者である。
自然科学はそもそも自然そのものが相手だからグローバル化なんて、なぜ今更、問題になるのだ?と思うかもしれない。さるノーベル賞受賞者の言説のように、英語はほどほどでも、科学の世界の共通語は究極は数学ができればいい、ということも事実だからだ。しかし全ての科学が完璧に記号化、定量化されているわけではない。そのことも含めて、基本から整理しておきたいと思った。
そもそも近代日本において、はじめて世界(Globe)が極めて深刻な関係として迫った幕末から明治にかけてのおさらいからはじめることにしよう。おさらいといっても何か型にはまった見方に対する賛否を表明するわけではない。勉強しながら、私なりに感じたままを記そうというメモである。そこから学んだものは、潜在意識として「グローバル戦略、戦術」への提案に反映するかもしれない。しかし、それは進行形として学ぶながらであるので、「戦術的な事柄」は自在に変化するかもしれない。
しかし、大嵐の中での羅針盤たる「戦略」だけは迷走してはいけないと思っている。
いつものことながらまえおきが長くなってしまった。さっそくはじめよう。
また長い著述の旅になりそうだ。いつものように途中で挫折しないようにしなければ。(2014, 10, 31)
(1)歴史に学ぶ、幕末ー明治維新(その1)
1。マンガ「幕末は「論争」でわかる」(あべまき、石黒拡親)
随分と前のことである。東北大学の大槻憲四郎教授という個性豊かな構造地質学の先輩に重要な勉強の仕方を示唆していただいた。わからないことの勉強を始めるときに、正確ではなくとも優しく記したシリーズからはじめると良いと。私もそれに習い、事始めには入門的なものからはじめて、その後乱読する。すると徐々に難しい議論もわかり、自分の見方も持てるようになる。経験的には関連する本や著作を20程度こなすとおぼろげながら見えて来るようだ。
というので、いきなりではあるが、最もスッキリとした入門はマンガ本。これってすばらしい日本文化でもある。なんせ幕末明治維新時にジャポニズムとしての浮世絵はセザンヌ、ゴッホなどフランス印象派絵画を形成するグローバル化の先陣を切ったのだから。今風にいえば、情報氾濫社会の中で、いかに本質を一気に単純に伝えるかという、芸術(科学と技術を含む広い定義、リベラル・アーツのアーツ)なのだ。
結果。
わかった!(気にさせてくれた)
幕末は「幕府と薩摩と長州」の権力三体問題なのだ! そこに欧米列強と朝廷と民衆が絡み、対外対内政策実行で振り回される。
社会を如何に変えるかとの方法も含めて、人類普遍の理念に基づいた勝利者はおらず、殺傷が繰り返された。
でも少しだけ、人類普遍の理念に近づいたかに見える。
2。幕末史 (半藤一利)
グローバル化とアイデンティティー。今日本の様々な場面での相対するキーワード。この同じキーワードで揺れた近代日本の原点は1853年の黒船来航ということは誰しも知っている。しかし、以降の歴史に対する評価については、割れている。私は若い時からの癖で、すでに提案されている見方に組することから身を引いてしまう。それを超えた(超えなくとも違う)論理を探りたい、と思ってしまう。その意味で、本書は、歴史の巨大な流れで多くの命が失われるも救われるも、人の出会いが大きく左右するという、一期一会史観とも言うべき見方を示してくれていて面白い。ためにもなった。
幕府で欧米列強に屈服しないように大いなる努力があったことを評価しようという視点。これは明治維新後、岩倉具視自ら全権として世界を回って本格的に外国から学んだ、という私の中での誤解を解く、良い機会となった。
3。幕末・維新(井上勝生)岩波新書
明治新政府よりも幕府擁護的論調である。明治維新の忘れられている負の側面、琉球処分、アイヌ処分にも目を向ける。薩長史観への挑戦なのであろうか。それとも戦後民主主義の中で論争ともなり、また人民史観ともいえそうな井上清氏らの「徳川幕府が勝利していたら間違いなく日本はフランスの植民地となっていただろう」という新政府擁護的「もしも論]への反論なのであろうか。いずれにしても岩波新書の選択らしい、として読んだ。
4。会津戦争 戊辰戦争最大の悲劇 (星亮一)
見つけた、会津の陰にドイツあり! また梶原平馬家老は、斗南への移転後北海道根室へ渡り、妻と共に教育に従事したという。北海道にどれほどの人が流れてきたか。会津敗北悲劇の根本原因は、農民などの人心掌握不足であり、組織的不統一であったという。しかし、その武士魂は今に受け継がれている。会津は決して靖国問題では妥協しないだろう。なぜなら祀られていない奥羽越列藩同盟の実質盟主だからだ。 明治以降名を残した山川兄弟や山本八重などの矜持は探っておきたい。普遍理念の優位で西南戦争後復活したのだから。(2014,10, 31)
(1)歴史に学ぶ 幕末ー明治維新(その2)
5。明治維新 (井上清)
戦後、大きな影響力を持ったリベラル明治維新観によると明治維新には3つの特徴があった。
1。民族の独立(攘夷思想から開国への大転向)、
2。国家の統一(260諸藩から天皇統一国家へ)、
3。封建経済から資本主義経済へ。
戦前の明治維新観の中心は「王政復古」最優先観であったので、上記井上の見解が、戦後にリセットされた見方だ。
井上清は土佐人ということもあるが、人の描き方が面白い。歴史は英雄的個人の組み合わせが決める、と思えてくる。
武市瑞山への入れ込み、惚れ込みは相当なものだ。
幕末明治期は「朝令暮改」というか、「昨日の友は今日の敵」というか、人間関係の離合集散が激しすぎる。
その離合集散が、大義のようでもあり、私欲のようでもある。誰が最後まで大義貫徹に近かったか?嫌われ者の大久保のように思えてくる。
時代の先を見通して自己を犠牲にする、その滅私奉公は人を惹きつけるが、その時間が短い場合は、自己犠牲とは受け取られず、利己と映るようだ。そして殺しあう。すざましすぎる。
これが政治なのか、これが権謀術作なのかと、人間何を信ずればいいのかわからなくなる。
明治の3傑、西郷、大久保、木戸も結局、皆孤立し、死んでゆく。
公家きってのバランス感覚の岩倉も、西南戦争後の自由民権、憲法、議会運動の中で消えてゆく。
結局、誰が一番遠くを見ていたのか?
やっぱり、坂本龍馬だったのか?
彼が幕末の中では身分的には一番下であり、酒屋上がりの下級郷士であったが故に、失うものがなく(実際に脱藩して捨てた)最も自由であった。そして平和を願った。
最後に公武合体派最後の一手の王政復古劇の中で、坂本が死んで誰が一番得をしたか?それは武力倒幕派。
同志など瞬間劇。論が変われば殺しあう時代、そう思えば、自ずと殺害者の真相が見えて来るようだ。
(1)歴史に学ぶ 幕末ー明治維新(その3)
6。日本近代史(坂野潤治)
この著者の作を手にしたのは、「明治維新」がはじめてであった。裏表紙の著者の写真を見てビックリ。私たちの地質学の業界で有名な故坂野昇平教授(京都大学)にそっくりなのだ!同じ苗字。著者の年齢から考えて兄弟に違いないと確信した。
坂野昇平氏は戦後の地質学会にあって変成岩岩石学の分野で世界的に大きな貢献をした都城秋穂氏の一番弟子というべき存在で大きな影響力を持った。金沢大学におられたが全国から多くの学生が学びに集まり、後に京都大学に移られた。坂野スクールと呼ばれ多くの優秀な研究者を輩出した。
私は坂野昇平氏との関係を確かめようと、坂野潤治氏が定年まで勤めておられた千葉大学の友人に聞いたが、よく知らないが多分そうだという。そこで坂野氏と同じ世代になる、地質学会の重鎮、杉村新氏の卒寿のお祝いの時にお会いして聞いたら、そうだという。
その坂野潤治氏の近代史が最近受けている。次々と著作が発表されている。私は歴史学はもちろん門外漢なのであるが、なにやら親しみを感ずるのである。「朝まで生テレビ」で時代を画した田原総一郎氏もファンだという。そんなこんなで読み始めた。
私の読んだ動機は、もちろんこのグローバル化のテーマに絡んで、幕末から明治、特に明治10年の西南戦争までの間の国を担った若者、中堅たちの国際感覚と実際の行動、そしてその結果を知りたかったからである。そこから学び取るものを、今後の日本や私たちの科学コミュニティーの未来へ少しでも役立たせたいのである。
坂野潤治氏は、西郷の思いが時代を突き動かした、との主張をなんとか検証したいという視点である。彼が抱いた時代と日本社会に対する危機感、そして思い描く理想が時代を前へ進めたというのである。
当時の薩摩は地政学的な位置からいっても、中国や朝鮮半島の情報は次々と入ってくる。長崎も近い。欧州の情報も入ってくる。そして日本海の沿岸ルートを伝って行われていた北方貿易によって、北のロシアの情報も容易に入ってくる。それらを総合するとアジアは欧米列強の植民地拡張の草刈り場になっていることは容易に理解された。
しかし、それを危機と感ずるかどうかは、どのような情報を取捨選択するかだ。徳川幕府は、欧米の圧力に抵抗しつつも開国して植民地化を防ごうとした。しかし不平等条約を結ばされ、横浜、横須賀などはほとんど香港と同じ治外法権の租借地のようなものだった。そのことへの強烈な反発が攘夷思想となり、薩摩と長州は実際に戦いを交えた。しかし攘夷戦争は瞬間で敗北。やむなく彼らも開国へ大きく舵を切った。世界の動静を身をもってはっきりと認識したからである。
その変わり身の速さは現代へも通ずる。いつまでも攘夷思想というイデオロギーを優先させていたら、日本は間違いなく植民地となっていたというのが大方の歴史家の見方のようだ。理想と現実の狭間でどう間違いのない判断をするかが問われるのである。理想を押し通すと多大な犠牲を生む。
さらに公武合体から大政奉還止まりで終わっても、日本は植民地化していた可能性が高い。なぜなら幕府の後ろにはフランスがぴったりとついていたのである。倒幕の際には幕府側につき、戊辰戦争の最後の戦い、函館五稜郭戦争の幕軍(榎本武揚総統)を蝦夷共和国と呼んで励ましていたのはフランスであったからだ。一方の薩長の側にはイギリスがついていたことはいうまでもない。
ペリー来航以来たったの15年の間に、西欧列強の間の植民地をめぐる微妙な綱引きを逆に使い、倒幕を成し遂げた明治維新。その研ぎ澄まされた国際感覚には大いに学ぶべきことがあるように思う。知れば知るほど内憂外患で精も根も尽きかけそう。
今、東西冷戦が終わって25年、超大国アメリカの時代にはっきりと陰りが見え、勃興するアジア。その中で日本はどう生きるかを考えるとき、この幕末から明治維新にいたる経験から学ぶべきことは実に多いように思う。
明治維新を達成した直後に、国内的にも大きな課題が山積みであったにもかかわらず、あえて世界一周の視察にでかけるという「暴挙」ともいえる行動に明治新政府は出るのである。
その時の国際感覚と覚悟はどのようなものであったのか、それを知らずして歴史から学んだとはいえない。
次にそのことを見てみよう。(2014, 11, 25)
(1)歴史に学ぶ 世界俯瞰の旅ー岩倉使節団(その4)
岩倉使節団(岩波文庫:大泉三郎)
明治維新は、直接的にはペリー来航以来相次いで迫られた西洋列強による開国要求に対する幕府の対応を巡っての対立を契機としたが、同時に国内における権力闘争が重なり実現した。しかし、徳川幕府を倒したのちにどのような国を作り上げるのかについてのビジョンがまとまってはいなかったので、大騒動が繰り返された。
この国の混乱をもたらした外因たる西洋列強についてもっと知らなければ、対応もできない。まして攘夷どころではないという認識は正しい。だから徳川幕府はいち早く列強諸国に人を送り込んでいたのである。薩長も、それぞれ実行した攘夷の結果、赤子の手をひねるように敗北を経験して、周回遅れではあるがはじめてその脅威を身を以て体得、遅ればせながら西洋に人を派遣している最中で明治維新が成功したのである。
まだ西洋列強(夷狄の敵)について十分に知り尽くしてはいない。その思いが新政府の中枢にあって、使節団を派遣するという大きな決意をさせるにいたる。その時期は、廃藩置県によって二百以上の藩を潰し、四十あまりの県を設置した直後である。藩の廃止はすなわち武士の失職を意味した。お殿様はいい。華族として優遇され、温存される。しかし、大半の武士は士族という身分は形として残るが、収入の道が絶たれたのである。明治維新の勝ち組の官軍の主体は下級武士であったから、その貢献が報われるどころか切り捨てられたのである。
相次ぐ改革によって、多くの騒動が起こり始めていたその矢先の政府中枢の使節団の派遣である。内憂外患、波乱含みであったことは疑いがない。使節団帰国後の政府の大分裂、下級武士たちの大反乱、そして西南戦争の結末となったことは日本の歴史、とくに近代史の根幹にある。
しかし、結果としてこの1年10ヶ月に及ぶ、あらゆるものを吸収しようという使節団の貪るような旅が、その後の日本がアジアで最初の産業革命でのに成功へとつながる。日本が歴史上初めて「地球儀を俯瞰」しながら内外政策をすすめる礎となったのがこの使節団の派遣だったのである。
この時に日本が、どの国からどのような事柄を学んだのか、そして日本のあり方について自らどのように位置付けたのかを知ることは極めて教訓的である。すでに時が140年も過ぎている。第1次、第2次世界大戦、そして冷戦のという未曾有の悲劇も伴った後であっても極めて生き生きと捉えることができる。
明治4年、岩倉使節団は太平洋を渡りサンフランシスコに入る。絶大な歓迎をうける。自由の国、南北戦争を終えたばかりの理想の国と映ったであろうか。不平等条約改定という大目標ではあったが、全権の証拠を見せろと言われて、世界の常識に対する無知を知らしめられる。欧州に渡り、英国、フランス。当時世界で最も強大な2国である。アジアへも破竹の勢いで植民地を広げている。先進国の現実を見せつけられる。イギリスは島としては日本と同じ程度、制度も君主制。それに対し、フランスは王政を倒した共和制。アメリカの理想もルーツはフランス革命。使節団はこれらの国は日本が学ぶべきところとは違うと思ったのである。
その後、ドイツ。そこはプロイセンーフランス戦争に勝利したばかり。ビスマルクにも逢う。ドイツ帝国として統一されたばかり。英仏に対して遅れていたのでまだ世界各地に植民地さえない。ビスマルクは、彼らのような拡張主義は取らないと日本代表団に言明。使節団は、この新生ドイツが日本が学ぶべき国として最も近いと判断する。
その後、敵情視察とでも位置付けたのか、ロシアを見る。そして北欧を見、地中海諸国を視察して帰国する。
物見胡散の見学旅行ならこんな楽しい旅はない。しかし、日本の国の世界戦略、グローバル戦略を構築するための世界情勢の把握、そして日本の国の設計をするというアクションアイテムの決まった緊張した旅である。
この旅が終わって動き出した日本の歴史が、1945年の第2次世界大戦の敗北にいたる破竹の発展と失速のはじまりであった。
何が良くて何が間違えたか、それは歴史学、政治学の課題であるので、本題ではこれ以上論じない。しかし、日本の科学/技術/教育、とくに私たちが関係する地球科学、地質学の歴史や、そのグローバル展開を見るときも、その原点はこの岩倉使節団である。
その点をつづけてみてみよう。
(2014, 12, 8 AGUまであと1週間を前にして:真珠湾攻撃の日。岩倉使節団は陽暦1871,12, 12横浜を出港。2014,同日サンフランシスコ着の予定)
(2)歴史の人物に学ぶ(その1)松浦武四郎
幕末時の人物として、松浦武四郎という人がいた。蝦夷が島に北海道という名を冠することになったいわば名付け親であり、アイヌの人に深く接した探検家、北海道の地名がほとんどアイヌ語を語源としていることとなった名ずけ親として名を残している。
この人は、北からロシアが押し寄せてきて開国を迫る中、北海道から樺太、島を含めた地を精力的に歩き、記録し、そこを最もよく知っていた日本人である。したがって身をもって迫り来るロシアの足音を知っていた。北海道、樺太、千島には、アイヌの人々が住んでいたが、彼らは和人の傍若無人な扱いによって、民族絶滅の危機に瀕していることを記した。
そのまま放置するとアイヌの人々はロシアによる懐柔を受け入れ、樺太、千島はおろか北海道までをも領有されることになりかねないと幕府とそれと対立する攘夷派の両者に知らせしめた。幕府は、北海道全域を管理する責任の松前藩では、とても持たないと直轄管理にしたりする。
しかし、管理支配の実態、アイヌの人々が越滅の危機に瀕するほどの過酷な搾取は直接的には北方貿易の商人によってもたらされていたので、松浦の現状変更の願いは虚しく消えたようだ。松浦は明治新政府成立によって北海道開拓使官吏となった。しかし、アイヌの人々の生活実態はなにも変わらないとの虚無感からか、明治2年、すぐに辞職する。
以降「馬角斉」(バカクサイ)とのペンネームで執筆の余生を送った。北海道には明治になって2度と足を踏み入れることはなかった。その時代に最もアイヌの人々の心に入り込んだ人としていまでは高く評されている。
参考文献:花崎⚫️平 「静かな大地」岩波文庫
(2)歴史の人物に学ぶ (その2) 吉田松陰
2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公は、吉田松陰の妹、文である。もちろん、吉田松陰があっての文であった。吉田松陰といえば、長州で松下村塾で教え、そこから多くの明治維新の英雄たちを輩出した英雄の中の英雄。
ペリー来航時に船に乗り込み渡欧を試みたり、幕末にあって国を憂い、西洋列強の脅威を誰よりも認識し、それを排除する攘夷のために東奔西走した。その破壊的な影響力が明治維新としての大きな炎となったことはあまりにも有名だ。
弟子たちに宛てた辞世の句、
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
はあまりにも有名であり、第2次世界大戦前の教育において、かくあるべしの典型として取り上げられた。
戦後は、このことが逆に日本軍国主義教育批判として解釈され、吉田松陰はなにやら歴史的な狂人であるかのような空気の中でひっそりと置かれてきた感がある。
しかし、幕末から明治初期の国際情勢と日本の危機をここまで感じさせたのはなぜか、なぜそれが江戸や京都ではなく、名家とはいえ、一介の外様大名の武士であったのか、ということは歴史として検証されていい。だからこそドラマの作り手、放送する経営側、あるいはそれらをとりまく日本の空気として、今、NHK大河ドラマなのかもしれない。
もちろん、松陰は自分の生き様、死に様、その全てを永遠に残るように、世のため、人のために燃やし尽くされるように意識して、斬首に臨んだ。その死に様すらも語り継がせたのだ。
「狂」。世界を変えるには、そこまで必要なのかもしれない。この攘夷の思想の根底は、今でも引き継がれており、われわれがグローバルという言葉を口にするときは、思い起こしたほうがいいかもしれない。
「花燃ゆ」、1年後に感想を記してみようと思う。
(吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち 中公新書。 2015, 1, 11)
(2) 歴史の人物から学ぶ (その3) 勝海舟
勝海舟といえば、西郷との談判で江戸城無血開城、江戸を火の海から救った英雄と歴史では学ぶ。
しかし、それ以前も、明治になってからどうしたのかを私はよく知らなかった。1860年江戸幕府が総力を挙げてアメリカに派遣した咸臨丸の艦長。ん、これはそうだったと思い出した。長崎海軍伝習所にて坂本龍馬らと一緒。そうだ、それもいろんな場面で出てくる。
ちょうどこの時代をめぐる世界情勢と日本、そしてその西洋列強との駆け引きの中での熾烈な外交と国内で荒れ狂う攘夷、西洋人殺傷事件の数々。まさに内憂外患。イギリスとフランス、ロシア、そしてアメリカ。この三正面外交に揺れる幕府。
幕末外交を理解する上で、ロシアがこんなにも重要な位置にあったとは。でもわかりやすい。ロシアは、清から沿海州をもぎ取った。そして北緯43度以北はロシアになる。日本列島の北緯43度は北海道札幌。ロシアが日本海から出るときには、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡を通らねばならない。そこは確保したい。手っ取り早いのは蝦夷を領土化すること。
開港した函館には常にロシアは停泊。蝦夷(北海道)、樺太、千島の国境はいまだ確定せず。虎視眈々のロシア。宗谷海峡、津軽海峡は函館に居座ることでロシアにとって目標は近い。そこにを租借地にすれば良い。
そして次、もう一つは対馬。ここさえ押さえれば万全。「対馬を貸してくれ〜(租借)」と言いたくなるロシア。
一方のイギリス、フランス。ヨーロッパでロシアとクリミア戦争を戦ったばかり、しかし日本とアジアを巡ってロシアと遭遇すれば戦いになる。1861年ついにロシアが対馬に居座った。上陸までした。租借を申し入れてきた。フランスも租借を申し入れてきた。イギリスも水深測量に動く。
さ〜、大変。
幕府の中は、イギリス派、フランス派、ロシア派の分かれている。もっとも強いものについて難を逃れたい。しかし、国の中は攘夷。その攘夷殺傷の賠償に租借を迫る列強。この三つ巴外交を巧みに乗り切り、結果として対馬の租借を許さなかった。
その外交の陰に勝海舟がいたのではないか、という極めて面白く、事実とすると歴史学に変更を迫る重要な仮説である。このひとこそ本当の歴史の立役者だったのかもしれない。幕末期の幕府側の英雄に関して、明治新政府から現代へつながる勝者の側の正論歴史学には、当然ながら勝海舟の記述は少ない。
明治新政府が、戊辰戦争勝利後慌てて敵を許し、有能な人材を取り込もうとしたのは、特に外交において幕府側の15年の蓄積と人材は不可欠であったからだ。勝は、しかし、権謀術策の世界には嫌気をさしていたのではないだろうか。勝についてもっと知りたくなった。(2015, 2, 15)
勝海舟「外交の極意は、誠心正意にあるのだ」(氷川清話)
「彼を持って彼を制す」の権謀だけでは、してやられた側は復讐心に燃える。いずれ平和は破れるのである。あなたとわれわれはもともと友達です、信頼できる相手です、という気持ちが通じていなければ平和は望めないのである。
(上垣憲一著、勝海舟と幕末外交ーイギリス・ロシアの脅威に抗して、中公新書)
歴史の人物から学ぶ (その4)新渡戸稲造
昭和59年から平成19年までの18年間、五千円札の顔であった新渡戸稲造。登場した時に、「この人は誰?」と思った人は多かったのではないかと思う。
福島出身で北海道大学の前身である札幌農学校の第2期生である。北海道大学には、ポプラ並木の横に急遽、銅像が立ったり、キャンパスを特徴付けるハルニレの巨木が実は新渡戸稲造の、アメリカ人であるその妻メアリーによる、植樹を記す標識が立てたりたり新渡戸氏を記念するいくつもの事業が展開された。氏らが尽力した遠友夜学校の記念館も作られた。「少年よ大志をいだけ!」を残した札幌農学校初代教頭のクラーク博士と共に、今や北海道大学のシンボルとなっている。
新渡戸稲造の歴史的な功績は何か、と問われたら、明治日本にあって、世界に日本を知らしめた最大の国際人であったということであろう。
彼に関する事柄は、ネットや多くの出版物から知ることができる。グローバル化ということが問われてる現在、歴史の人物から学ぶべき第一人の一人とみなされている。
彼が札幌農学校へ入学した時にはすでにクラーク博士は去っていた。クラーク博士の薫陶を受けた第1期生はクリスチャンとなった。第2期生も信徒となったが新渡戸がクリスチャンとなるのは、相対的に遅かったようだ。しかし、キリスト教の「愛と他者のための自己犠牲の精神」は、武士の精神に通ずるものがあると理解し、信徒となる。そして後に記した「武士道=日本の魂」(Bushido-Japanese Soul]が、西欧社会に日本を知らしめる大きな役割を果たすことになるのである。
この明治期の科学と技術の外国人お雇い教授の受け入れには、2つの流れがあった。一つは明治中央政府によるドイツからのものであり、いまひとつは北海道におけるアメリカからのものである。この過程は新渡戸が活躍するにいたる日本の文明開化の過程を理解すると見えてくるようだ。
彼の設立した遠友夜学校は、グローバル化とは別な視点でも面白い。